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田舎暮らしの本 5月号

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田舎暮らしの本 5月号

3月1日(金)
890円(税込)

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心をフラットに保って生きる心地よさ~メンタルを健康に保つためのルーティン~/自給自足を夢見て脱サラ農家36年(11)【千葉県八街市】

中村顕治

自給自足

  編集長から手元にいただいている数々のサンプルテーマの中に「メンタルを健康に保つためのルーティン」がある。今回はこれを選ばせていただこうかな……。前回の原稿にメンタルは出てきたのであるが、最後の方に少しだけだったから、もっと突っ込んだかたちで書いてもいいかな。そう考えた。ただ、それを副題としたのは、僕が最も力を入れて書きたいこと……これまでずっと僕自身の暮らしがそうであった「フラット」というところに主眼を置こうと考えたゆえだ。「感情の上下動をなるべく小さくして生きる」、その生き方は、周囲の物事を正確・客観に見せてくれるように僕は思う。また他人との接点においても、摩擦が少なく、結果として自身の穏やかな暮らしにつながり、精神が安定する、さらに、うまいことに日々の仕事だって捗るのだから……こうした思いを主題としたいと考えたゆえだ。

 僕の言うフラットとは、少し表現を変えて言えば、精神の「沸点」をなるべく高くすることだ。沸点が低いとたやすく感情は揺れ動く。高ければ、ちっとやそっとでは興奮せず、燃えすぎず、取り乱しもしない。深く悲しむ、惑うということだってあまりない。つまり、株価の乱高下に一喜一憂する、あのココロとは対極で、シーンと静まり返る風景が生まれてくるのだ。沸点が高い暮らしとは、ひとつ間違えると味気ない、退屈きわまりないものと見られかねない。たしかに今日も明日も、かなり単調なわけだし。でも、実は、そこにこそ「ヘルシーな精神の種」が宿っている……僕はそう考えるのだ。

 朝日新聞に「多事奏論」という記事を書いておられる近藤康太郎という方をご存知の読者もいよう。現在の肩書は天草支局長。百姓や猟師がしたくて自ら支局勤務を願い出た……以前の記事にご本人の筆でそうあった。いわば、中央の舞台からドシンと土の上に降り立ち、コメを作り、狩猟で手にした肉を食う……そんな、ごっつい田舎暮らしを実践されている方である。その、軽快で、諧謔で、ズバリの筆力に僕は魅了され、前からずっとファンなのである。

自給自足

 その近藤氏は、10月23日付の「多事奏論」をアメリカ大リーグのエピソードから始めている。氏はミステリー作家、ロバート・B・パーカーの言葉を引用しつつ、天然芝、ドームもエアコンもない青空、応援団もいない球場への賛歌を軽快な言葉にする。そして、日本の球場での私設応援団のやかましさを衝く。

同じメロディーを集団で繰り返す面妖な応援にうんざりしているのは、わたしだけなのか。百姓、猟師のうえ音楽評論家でもあるわたしは、あの単調なメロディーの繰り返しが耐えられない。たちの悪いミニマルミュージックかよ……。

 僕もずっと同じことを考えていた。そもそも、あの人たちは何をしに野球場にやって来たのか。ゲームを楽しみに来たのではないのか。太鼓を叩くためなのか。あれじゃ、肝心の試合がどうなっているのかわかるまい。周囲の者にはただうるさいだけの騒音だ。選手だって、もしかしたらシーンとした空気の中で野球がやりたいかもしれない……そう思いながら読み進めていたら、近藤氏はこう言葉をつないだ。

試合の大詰め、みんな体を硬くして見守る。水を打つ静寂。豪速球。バットが空を切る。キャッチャーミットに収まる衝撃音。静かなどよめき……。

 そうなのだ。物事の本質は、あるいは味わいは、「静けさ」の中に存在するのだ。ドンチャカという途切れない音は、ただ耳にうるさいだけでなく、いちばん大事な部分を帳消しにしてしまうのだ。近藤氏の記事の本旨は野球の応援云々ではない。氏の筆はもっと別なところに向かっている。あとでもう一度氏の文章を引用させていただくので「本旨」はそこでわかる。

 近藤氏の文章を読みながら僕の頭に浮かんだことがある。それは列車のラストラン、あるいはデパートの閉店セール。有名デパートが売り上げ低迷で閉店するという。すると店の前には長蛇の列ができる。格安セールに興奮していたお客が、やおら顔を少し曇らせ、寂しくなります、悲しくなりますという言葉を漏らす。意地が悪いかもしれないが、それを見た僕は思うのだ。だったら、もっともっと品物をふだんから買ってあげてたら閉店せずにすんだのに……。

自給自足

 列車のラストランの風景には、さらに強い拒絶反応が僕にはある。ホームにはこぼれんばかりの人がカメラを手にして列車に見入っている。そして声がかかる。「長い間ありがとう!!」「長いことご苦労さん!!」。鉄道ファンには怒られるだろうが、それって、感情移入が強すぎないかい。感情の沸点が低すぎないかい……。

 僕も実は、かなりの鉄道ファンである。北海道から九州まで、寝台列車を中心に多くの長距離列車に乗った。かつて、最も長い普通列車として名を挙げた東京→大垣間の夜行電車をも、すでに新幹線が走っていた時代なのに、あえて体験してみた。そうした列車好きが高じて、ついに足を向けたのがシベリア鉄道1週間の旅だった。時はソ連崩壊の直前。車内食堂の食事は決まって黒パンとジャガイモとキャベツの酢漬けだった。それに僕は飽きもせず、窓越しに12月のシベリア原野を眺め、その合間には、車両連結部の空間に行って腕立てやスクワットをやった……。

 べつに、こんなことでもって先輩ヅラするつもりはないけれど、「ごくろうさん」「ありがとう」は過剰にすぎないか。なるほど、僕にもあるよ、同じような気持ちが。でも、僕ならば、そっと、遠くから、過去の栄光を偲ぶ。昔を懐かしむ。ラストランの列車に向かって叫ぶ人たちは、やはり感情の沸点が低いのだな。いやそれとは別に、僕には「感動の場面」をみずから演出している、その結果が「ありがとう」「ごくろうさん」ではないのかという気がする。これは列車のラストランに限ったことではない。すっかり田舎に引っ込んだ年寄りの僕には、今の時代、都会の多くの人が「感動」を求めてエネルギーを費やす暮らしをしているような気がする。それを凝縮したものが「勇気と感動をもらいました」という言葉だ。そうかな?  勇気というのは人から与えてもらうものではない。自分で作るものだ。秘伝のタレで長時間煮込んだモツ鍋みたいに(?)、時間をかけて、様々な経験を通して、自分で醸成させるもの……ではないのかな。

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 こんなことを言う僕は、もしかしたら、ネクラなのだろうか? 一般的な条件から言うと、当てはまるところも多い気がする。だが急ぎ書いておく。近所の人や知り合いに出会うと必ず相手より先に、おはようございますと僕は言う、笑顔でもってね。ランニングやウォーキングですれ違う人にも軽く会釈をする。雨の日や風の日に宅配便があると、今日は大変だなあ、ありがとう、ごくろうさん、がんばってと小さなエールを贈る。だから、僕をネクラな年寄りと思っている人は、たぶん、いないと思う。

 それでも、もしかしたら、オレの本質はネクラかもと思うのは、感情の上下動が少なく、先ほどから書いている「沸点」が高いゆえに、外界からの刺激に左右されない鈍い体質だからだ。端的な例が、夏場、40度を超える畑でスコップ仕事をしても僕の体は音を上げない。熱中症になったことがない。燃えるような空気に包まれつつ、体液だってかなり沸騰しているだろうに、けっこう穏やか、平静な心で目前の仕事に取り組める。

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 これは肉体での話だが、精神の沸点も同様ということになろうか。若い頃から僕は、ビートの効いた、早いテンポの音楽が好きになれなかった。好き嫌いというよりも、にぎやかな音楽は僕の感覚にすんなり溶け込んでこなかったのだ。だから悲しいことに、ダンスができない。若い時代に流行ったゴーゴーなんて、お呼びじゃなかった。のちに結婚することになる彼女と、どういう流れからであったのか、ゴーゴー喫茶に入ったことがある。「おどろ!!」と手を差し伸ばす彼女の誘いにどうしても椅子から立ち上がれず、そのうち彼女は、店にいた見知らぬ男ときれいに踊って見せた。へへっ、やっぱりネクラだったんだなあ、オレは。

 今もそのネクラ精神は引き継がれているかな。ふだん聴く音楽は、バッハ、チャイコフスキー。映画音楽なら、「ひまわり」のテーマ曲。あるいは太陽がいっぱい、シンドラーのリスト、ドクトルジバゴの「ララのテーマ」……日本の歌謡曲も聴くんだが、それもやはり、暗い感じのものかなあ。「北の宿から」「氷雨」「津軽海峡冬景色」「神田川」、そして、さだまさしの「案山子」、吉幾三の「酒よ」……。ついでに映画について言うと、ものすごいヒーローがバッタバッタと敵を倒してハッピーエンドというのは、頼まれても、カネもらっても見ない。ふん、こんなことってあるものか……僕はかなりの、考えようによってはなんともつまらないリアリストなのだ。思考が現実世界から逸脱できない。自分の思考の土台と支えとなっているのは骨と筋肉……そこからすべてを考え、ずっと行動してきた。

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 屋上庭園で朝食しながらしばしば聴くのが「アヴェ・マリア」だ。ありったけの「アヴェ・マリア」をパソコンにため込んでいる。合唱、独唱、ピアノ曲、バイオリン曲。サンドイッチを食べ終わり、大きなカップの珈琲を飲み終わるまで僕は聴き続ける。皆さんは「アヴェ・マリア」にどんなイメージをお持ちか。僕には「勇気と希望」を湧きたたせてくれる不思議と明るい音楽である。メロディーからすると明暗の暗であり、限りなく静寂である。それなのに、僕の心は沸々としてくる。よっし、今日も全力で仕事をこなすぞ、やるぞという気になる。あの、野球場の私設応援団にも劣らぬ力強さでアベマリアは僕の胸に迫ってくるのだ。試しにアナタも聴いてみてください。時は5月の新緑の頃がいい。ゆるやかに風が吹いている。その風に若葉がそよいでいる。そこにアベマリアの歌声が重なる。まっすぐ青空に立ち昇ってゆく……アベマリアは僕にこう思わせる。生きていることは素晴らしい。この時間と風景を余さず楽しむべし。力いっぱい、今日も生きるべし……。珈琲を飲み終わって立ち上がる僕は、泥もぐれ(ふるさと祝島の言葉)になって、今日もしっかり働くぜ……そう気合が入る。

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 田舎暮らし、百姓仕事。いずれもそれは、沸点が高いほどうまくいく……。これを普遍化するつもりはなく、人それぞれなんだとは承知しつつも、自分の体験からそう考える。沸点が低いと感動の場面が次々と生じるもの。生じた感動はたやすく「田舎賛歌」「百姓賛歌」となる。僕の暮らしにも賛歌の場面はあるけれど、ポップコーンみたいに皿の上にコロコロと無数に転がっているものではない。1日の半分は単調な作業の反復繰り返し。そこに、思わず力をこめて、ぶわっとオナラが出るようなタフな作業がたまに加わったりもするけれど、まだまだ「賛歌」には遠い。オリンピックは参加することに意義があるが、田舎暮らしはやたら賛歌することには意味がない。初めに言葉ありき……なのではなく、地味な反復の行動ありき、経験の長い積み重ねありき。その向こう側にようやくチラッと賛歌が生まれる。それも、遠慮がち、ミニサイズの賛歌が。

「人生の楽園」という番組がある。とてもよく出来た番組だと僕は思う。もうだいぶ前になるが僕にも打診があった。「ありがたい話ですが、わたしには資格がないですねえ……」。エンディングでは決まって夫婦が寄り添い、時には手をつないで散策する。独り者の僕にはそれは無理だもの。とてもよく出来た番組でナレーションも心地良い。茶の間の人々がくつろぐ日曜の夕餉時刻にはピッタリで、視聴者にはとろける高級スイーツのような味わいの30分だろうと思う。ただ、ちょっとだけ足りないものがあるような気もする。予定調和がやや過ぎる。隠し味でいいから、渋みや辛味もチョッピリ含まれていれば、もっといい。

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 少し脇道にそれたが、やたら賛歌するなと繰り返し言う僕にも反対方向からの異見がある。何かといえば田舎を悪く言う人の存在だ。東京での勤めを辞めて田舎暮らしを始めた人。不測の事態でもって百姓仕事を断念したというのだが、その人、事あるごとに田舎人を悪く言う。例えば、ずかずかと庭に入ってきて教訓を垂れる人がいるだとか、田舎で賢い人とは、ズルして儲けた人を指すのだとか、田舎の人間というのは初対面の相手を侮蔑的に薄笑いしつつ見下すのが常だとか……ダメ田舎人を糾弾する話は枚挙にいとまがないほど……。ほんとに、それほどまでに田舎にはダメ人間がいるのかい?  僕は通算43年の田舎暮らしをしているが、たしかに波長の合わない人というのはいたけれど、彼ほどに言葉を荒らげて非難するような人物にはまだ出会ったことがない。村ではサラリとした、友好的な人間関係を僕はずっと維持してきた。人生いろいろ、人間もいろいろ。田舎だからそうなのではない。田舎でも都会でも、人間善し悪しのパターンには変わりがない。どこに行ったって世間は同じなのだ。だからこうして書いておく。やたらの賛歌は好みじゃないが、でも、やたらの批判はもっと好みじゃない。田舎とは、ほどよく和して、淡々と、小さな自由を基軸として生きる場所なのだ。たぶん、田舎を悪口雑言で形容する人の暮らしの背後には、ひとり取り残された無念とか、思い通りにならない日常生活とか、暮らしがうまくいっている人への嫉妬とか、何か理由があるはず。怒りや非難は自分がまいた種からきっと生じたものなのだ。

 ここで再び近藤康太郎氏の文章を引用させていただく。氏は「集団で、一斉に」は野球場に限らないと言う。学校での組み体操。ロックやアイドルのコンサートでの掛け声、身振り。さらにはデモにおける一斉のシュプレヒコールも嫌いだと言う。理由は、「集団は、熱狂する」から。僕はロックコンサートをじかに経験したことはないけれど、なるほど、テレビなんかで見る限り、あの群衆は沸点が低い。自分で演出した熱狂に溺れて熱狂しているように思う(すみません、ダンスの出来ないネクラで)。そして最後に近藤氏はこう書く。

集団になること、一斉に何かすること。他人がそうすることに反対しない。体操も観戦も鑑賞も、抗議も社会運動も、「われ」を忘れたくない。百姓や猟師をしているのも、世界に対する一人だけの異議申し立てなんだ……。

 我々の田舎暮らしも、こうした観点から臨みたい。静かに、淡く、世界に向かって異議申し立てをする。その場所が田舎であって、自給自足なのであり、田舎暮らしなのであり、百姓暮らしなんだという観点をもとになされる自主行動を忘れたくない。これを堅実に実践したならば、精神はきっと平安になる。メンタルがやたら上下動することもなく、フラットな、けっこう心地よい感情の時間が流れていく。

 先ほど、「思考の土台と支えになっているのは、骨と筋肉だ」と書いた。もちろんこれは人によってそれぞれ違うだろう。ここでは、あくまで、僕の場合は、ということとして聞いていただければよい。骨と筋肉は、日常生活を稼働させる、いわば荷車みたいなものと僕は思っている。その荷車に精神、心が乗っかって時間と空間を移動している。もしその荷車が、油が切れてギシギシ、キイキイ音がしているとか、車輪に傷みが生じてガタガタしているとかしたら、どうしても気持ちは休まらない。その不具合がひどいと、荷車に乗っている心や精神は動揺する。不安定になる。さしてスピードは出なくてもいい。人目を引くようなカッコよさもなくていい。どこまでも肝要なのは荷車の安定走行なのだ。

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 その骨と筋肉。ここでもまた、低い沸点が邪魔してくる。沸点が低いと待てなくなる。即効性を求める。しかし実際には、日々たゆまぬ積み重ねでもって長い歳月を要するものだ。商売というのは飽きず、辛抱強く、やり続けるもの、だから「商い」なのだと世間では言われているが、骨と筋肉も同様。即効性を求めず、虚心に、コツコツと、ごはんを食べ、歯を磨き、トイレに入るのと同じくらいにさりげなく身体に負荷をかけてやる。こうした日常生活自体が、実は我々のメンタルを柔軟に保つ役目を果たしている。人間というのは、昨日と同じことを今日もやった、出来た、そう思う気持ちが不思議と平安に結びつく。なんだい、また昨日と同じことかよおっー。ともすると、変化のない日々というのは「感動優位」の人には退屈、つまらぬ人生と揶揄されるかもしれないが、僕は違う。昨日と同じことを今日もやった。明日もまた同じことをやろう、きっとやれる。この心情は深く穏やかな睡眠にもつながるものなのだ。ちゃんと眠れば、お通じだってちゃんと来るのだ。そして、ほぼ決まった時刻に、苦も無くサラッとなされるお通じはメンタル安定の条件でもあるのだ。

 こんなふうに考える僕には、だから、ちょっとなあ……と首をかしげるようなことが世間にはある。それは、「たった5分の運動で痩せられる、見違えるようなカラダになる」だの、「これ1冊読めば人生が変わる」だのという宣伝文句であり、それに飛びつく人がいるらしいことだ。沸点が低いのかな。さしたる投資をせず、すぐさまの利得と感動を得ようとしているのだな……ネクラの僕はついついそう思ってしまうのだ。やると決めたことをきっちりやる。深くは考えず、迷ったりもせず、まるで、昨日のビデオをまた見ているみたいに、昨日と全く同じことを今日もやる。それがメンタルを健康に保つための基盤であると僕は思っている。

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 さて、高校生の頃からずっと読んでいる朝日新聞には楽しみにしているコラムや読み物が数多くある。柴田元幸氏訳の「ガリバー旅行記」、福岡伸一氏の「ドリトル先生 ガラパゴスを救う」、谷川俊太郎氏の「どこからか言葉が」。そして、これから引用させていただこうとしている鷲田清一氏の「折々のことば」。紹介される詩人、哲学者、文学者、社会活動家の「ことば」に僕はいつも魅了されるが、鷲田清一氏の解説にも教えられることが多い。11月9日の「折々のことば」。

別の食物に飛びつくために、こちらの食物を残したままにしておき、夢中になって貪り食うということもなく、慌てる様子もない。(フランシス・ポンジュ)

 それに、何か失くしたままでも気にしない。かたつむりの佇まいをフランスの詩人はこう描く。体は傷つきやすくても、殻に身を潜めて、やかましい連中を黙殺できるし、蹴飛ばされてもすぐまた地面にそっと密着できる。「確実でもの静かなこの前進の態度以上に美しいものはない」と。散文詩集『物の味方』(阿部弘一訳)から。

 僕がなぜここでこれを引用したのか、もうお分かりであろう。「確実で、もの静かなこの前進の態度以上に美しいものはない」。田舎暮らし、百姓暮らしで僕が基本軸としてきたことだ。骨と筋肉を荷車に例え、スピードも華やかさもなくていい、必要なのは穏やかな安定走行である……そう書いた僕の気持、それがそのままこの言葉に表現されていると考えたからである。

自給自足

 ところで、「バカは風邪をひかない」という俗言があるのはどなたもご存知だ。ずいぶん人を馬鹿にした低次元の言葉のようにも思えるが、実はちょっと違うらしい。医学的な根拠もあるらしい。「バカ」とは「心を空っぽにする」こと。すなわち、あれこれと思い悩まないこと。脳内のファクターを最少限にして生きることであるらしい。つまり、ファクターをため込んで自分にやたらストレスをかけたりせず、あっけらかんと生きる人間。それがここで言う「バカ」なのだ。

 そして、僕はバカなのである。その証拠に、インフルエンザにも、普通の風邪にもかかったことがない。注射を打ったり、薬を飲んだりしたことがない。一般的には、馬鹿よりも賢いほうがずっといい。ただ、賢くありたいとの願望が強すぎるとセルフコントロールがうまくいかなくなる。もっと悪いのは、賢くなるための材料をいっぱい集めてはみたけれど消化しきれず、にもかかわらず賢いフリをして見せねば気が済まない精神状態が慢性化することだ。

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 繰り返しになるが、最後のまとめとしてもう一度書く。健やかなメンタルを支えてくれるのは、僕の場合は骨と筋肉である(そして、アナタにもきっと当てはまると考える)。日々の労働でもって強い骨と筋肉がだんだんに出来上がる。その骨と筋肉が大きくブレないメンタルを養成する。ブレないメンタルは仕事への意欲を増幅させ、作業効率も上げる。これによって骨と筋肉はさらに強くなり、これらがメンタルに向かって新たなエネルギーを再び注ぎ込む。すなわち、肉体→精神→肉体→精神というこの丸い循環は田舎暮らし、百姓暮らしにおいても強い武器となる。長い歳月の間には、この下の写真のように台風でハウスが倒壊するといった不測の事態だって生じるが、それでも我が心はそう簡単にはコケない。コケそうになっても、骨と筋肉の力、それを支えとしている精神のバネ、双方でうまく乗り切ることができる。

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 さて、いささかの迷い、気持ちのモヤモヤを持って生きている「アナタ」はこれから何をどうすればよいのだろうか。第一に、単調な繰り返しを避けたり馬鹿にしたりしないことである。第二に、やたらの感動を求めないことである。あちこち世間に存在する「賛歌」はあくまで参考資料にとどめ、少し冷めた日常を歩むことである。第三に即効性を求めない、「たった5分の運動で痩せる」「これ1冊で人生が変わる」……そういった宣伝文句を見たら眉に唾することである。あの、でんでんむしみたいに、殻に身を潜め、やかましい連中(感動、熱狂、一斉)を黙殺し、自分の道を自分の頭と手足でゆっくりと作ってゆくことである。

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 そして、風、光、木々の緑、あるいはセミ、バッタ、カマキリ、ガマガエル、時にはヘビやゴキブリまでも暮らしの中の友として生きることである。幸いにも、これらをほぼすべて用意してアナタを待ってくれているのが田舎暮らしというものなのである。やたらの賛歌は口にせず、大根、白菜、キャベツ、カボチャに日々向き合う。彼らがいま欲しているのは何か。水か、肥料か、それとも寒さよけか、それとも雑草が邪魔くさいのか。それだけを考える。その仕事の合間、空を見上げる。手近なところにあるミカンや柿をもいで、口をもぐもぐさせながら、「空っぽ」の心を高い空に浮遊させてやる。上の写真。朝の光と緑の葉と赤いサザンカの花が描き出す風景だ。一瞬モネの絵を思い出させるようなそれに「ちょとっだけ」感動する。その感動をこれから始まる1日の労働のバネとする。メンタルの安定とは、単調すぎるほどの日常を厭わぬ「したたかさ」。知らず知らずのうちに、そのしたたかさがフラットな、心地よいメンタルをもたらしてくれるものなのだとオレは思うぜ……風邪をひかないバカな男は今そうつぶやいている。

 

11月中旬の野菜だより

 ずっと暖かい秋だったが、やはり、11月も半ばとなると朝の冷え込みは増してきた。でも晴天続きだから作業ははかどる。この時期、最優先すべきは「天地返し」だ。畑の土を深く掘り、ふだん眠っている部分を地上に出してやる。これでもって、寒風と日光による土の消毒、雑菌の死滅がなされると言われている。機械なら半日もかからない仕事を、僕は半月かがりでやる。翌朝の起床時、全身がギシギシ痛むが、なに、トレーニングジムに行ったと思えばいい。しかも無料なんだもの。

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 この下の写真は8月から9月にかけて抜き取った草を積み上げておいてもの。抜くのがなかなか手ごわかった草たちも、今ではほとんど土になっている。天地返しと並行しつつ、この雑草堆肥を広げて混ぜ込んでやる。

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 そして今、僕が最も時間を取られているのがキウイ。この地に移って来てから5年間くらいで15本の苗を植えた。基本、オスとメスの木が必要だから、かなりの面積を占めている。しかも、キウイというやつはうっかりすると母屋まで取られるくらいにツルを伸ばす。厄介な果物でもある。

 そのキウイを毎日10キロくらいもぎ取っている。取ったら袋か箱に入れて、リンゴかバナナをそばに置く。リンゴとバナナが発生するガスでゆっくりと熟すのだ。だいたい3週間くらいかかる。

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 今年の冬は寒さが厳しいとの長期予報が出ている。この地で僕が経験した最低気温はマイナス7度。北国の人から見ればたいしたこともなかろうが、でも、マイナス7度はやはり厳しい。来月から2月まで僕は、ひたすら防寒作業に奔走する。午前8時頃、ビニールトンネルの上に朝日が当たり始める頃、防寒のためにかけてある古い布団やシートを外しに行く。シートの表面は凍り付き、時には薄い氷がカラカラと音を立てて落ちてきたりする。しびれる……心も手も。しかし、嬉しいものだよ。ビニール越しにイチゴの赤い花や小さく可愛らしい人参の芽を見ると(人参は1月にも種がまける。早い収穫を願う人は試してみて)。

 今はまだ、その厳冬に比べたらチョロいものだが、それでもやはり、すでに寒さ対策で走り回っている。この写真はなんであるか。中にあるのはインゲンだ。古い布団や毛布を5枚、その上から分厚いカーペットを、よっこらしょと掛ける。それでもって、ごらんのような収穫が得られる。

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 その手間を考えたら割に合わないことかもしれない。でも、こうして間もなく師走という時期、夏野菜であるインゲンが食べられるというのは嬉しいこと、楽しいこと。

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 百姓仕事には「遊び心」も時には必要なんだよね。こうしたらどうなるか。その経過と結果を日々追いながら胸をわくわくさせる。うまくいくことばかりではないけれど、まずは「やってみなはれ」。単にインゲンが取れたとか取れないとかではなく、この観察経験が必ずどこかで役に立つ。

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 11月13日午後5時。僕はホウレンソウの種まきにせわしない。いつもの荷造り発送を終えて帰宅したのが4時半。景気づけにアンパンを口に押し込み、熱い緑茶を飲んでから現場に急ぐ。大まかな作業は午前中にすませておいた。あとは細かい草を取り、溝を作って種を落とすだけだ。暗くなる前に、ビニールを掛け終えるところまでやってしまいたい。この時刻の土はもうだいぶ手に冷たい。

 落とした種にそっと土を掛けてやりながら、暮れゆく空の下で僕のテンションが少しばかりだが、上がる。本論でネクラ人間を自任、沸点が高いゆえにめったなことでは感動も賛歌もしないのだと書いたが、この場面だけは違って、わずかながらも希望に胸がふくらむ。未来への期待が湧く。未来といったって遠い未来ではないが。発芽が揃うまでに10日。年が変わる頃に草丈5センチ余り。そして……分厚い霜柱と凍り付いた地面で靴底がゴワゴワと音を立てる2月、露地で、長く寒気に当てたものに比べるとかなり華奢ではあるが、ほどよくサラダで食べられるホウレンソウがビニールの下に育っている。2月の初めは、何もせずにいたら1年で最も畑が寂しくなる時だ。寒気の中、そこに若い野菜の緑を僕は目にするだろう。その想いが夕暮れの肌寒さを忘れさせ、ささやかな希望で作業のテンションが上がるというわけだ。

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中村顕治(なかむら・けんじ)

1947年山口県祝島(いわいじま、上関町・かみのせきちょう)生まれ。医学雑誌編集者として出版社に勤務しながら、31歳で茨城県取手市(とりでし)に築50年の農家跡を購入して最初の田舎暮らしを始める。その7年後(1984年)の38歳のとき、現在地(千葉県八街市・やちまたし)に50a(50アール、5000㎡)の土地と新築同様の家屋を入手して移住。往復4時間という長距離通勤を1年半続けたのちに会社を退職して農家になる。現在は有機無農薬で栽培した野菜の宅配が主で、放し飼いしている鶏の卵も扱う。太陽光発電で電力の自給にも取り組む。

https://ameblo.jp/inakagurasi31nen/

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